2014年6月8日(日)ペンテコステ礼拝 『すばらしい助け主』

 『すばらしい助け主』 2014年6月8日(日)
    ―聖霊に満たされるには― 
ヨハネ14章 16-17節 使徒 2章 1-4節 
 本日の礼拝はペンテコステ礼拝です。ペンテコステとは何でしょうか。すでにご存知の方もおられますが、知らないという方のために、少しだけ説明をさせていただきます。
 イースターの意味はすでにご存知かと思いますが、イエス・キリストが十字架で死なれてから三日目に死からよみがえられた日であります。その日(イースター)から数えて50日目がペンテコステの日となります。
 このペンテコステとはギリシャ語で50番目という意味ですが、それは本来イスラエルの過ぎ越の祭りから50日目を7週の祭り(小麦の収穫を祝う日:使徒2章1節では5旬節)をペンテコステの日であります。
 ちょうどその日に120名ほどの弟子たちが一つ所に集まって祈っていた(主の約束を待っていた)時に、天から聖霊が下ったのです。
 弟子たちは力を受けて伝道した結果その日には3000人ほどの弟子が加えられたのです。それはまさしく教会の始まりでした。
 つまりユダヤ人にとって今日は7週の祭り(5旬節)ということで小麦の収穫をお祝いする日であり、クリスチャンにとって、今日は聖霊降臨記念日であり、教会の誕生をお祝いする日なのです。
 ということでけさは、ペンテコステ礼拝の主役であられる聖霊様についてお話をさせていただきます。
 けさの主題タイトルは『すばらしい助け主』で、サブタイトルは「聖霊に満たされるためには」であります。
 特にけさは、どうすれば聖霊に満たされるかについて学びましょう。
 はじめに、なぜ聖霊に満たされる必要があるのかをみことばから確認しましょう。
 まずそれは①神様の命令だからです。
 本来私たち人間というのは、人から指図されたり、命令されたり、強制されたりすると多少なりとも抵抗を感じてしまうのではないでしょうか。 
 しかしここで大切なことがあります。それは神様の命令を守るということは非常に重要であることを聖書は教えています。
 ヨハネ第一3章24節を見ましょう。
『神の命令を守る者は神のうちにおり、神も私たちのうちにおられます。神が私たちのうちにおられるということは、神が私たちに与えてくださった御霊によって知ることができるのです。』
 私たちの信仰において基本であり、そして一番大切なこととは、それは神様がおられるという確信を持っていることではないでしょうか。そのためには、神様の命令にしっかりと従うことです。
 それによって神様がともにおられることを深く確信できるのです。そして、その確信が確かなものとなるために助けてくださるお方が聖霊様なのです。
 続いてエペソ5章18節を見ましょう。
『また酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。(むしろ)御霊に満たされなさい。』とパウロ聖霊に満たされるようにと命じているのです。しかも満たされ続けなさいと勧めているのです。
 クリスチャンにとって聖霊に満たされることは必須なのです。さらになぜ満たされる必要があるのかという2番目の理由とは、②肉の誘惑から守られるためです。ガラテヤ書5章16−18節を見ましょう。
 肉に打ち勝つ秘訣は聖霊に満たされることであるとパウロは明確に示しているのです。
 それでは、本日の主題である「聖霊に満たされるためにはどうすればいいのか」を見て行きましょう。
 聖書は語っています、だれでもイエス・キリストを罪からの救い主であると信じた時に、聖霊がその人の心に住まわれます(第一コリント3章16節)。神学的にはそれを御霊の内住と言います。
 ところが、聖霊が心に内住してくださることと、聖霊に満たされることとは区別されているのです。
 つまり聖霊様が内住されたことによって、自動的に聖霊に満たされるのではないのです。
 例えばいかに高価な香水を持っていたとしても、それを容器から出されない限り良い香りを体験することはできないのです。
 それは容器から香水を出せばいいというごく簡単な方法でありますが、聖霊に満たされるためにはどうすればいいのでしょうか。
1.神様が喜ばれることをすることです。(へブル1章9節)。 
 子どもが悪いことをした時には父は喜べないのです。むしろ悲しみます。しかし良いことをした時には父は喜びます。その時は子どもの心も喜びで満たされるのです。父と子と聖霊様は一つです。そして主を信じた私たちも主にあって一つとされたのです。
 ですから、主の喜びは私たちの喜びとなり、その喜びは聖霊の満たしによる喜びとなるのです。
 反対に罪を犯すと聖霊様は悲しまれるのです。それは御霊を宿していても、御霊に満たされている状態ではないというのは明らかであります(エペソ4章25ー31節)。
 2.神様におゆだね(任せる)することです。
 ビリーグラハムは『聖霊』という著書で、ローマ書6章1、2節において、クリスチャンは過去においては罪が私たちの生活を支配していたけれども、しかし今や私たちはキリストに属し、昔の主人である罪のために生きているのではなく、新しい主人であるキリストのために生きている。
 従って、罪に服従すべきではなく、神に自分をささげるべきである(ローマ書6章13節)。つまり私たちクリスチャンは主人を変えたのである(ローマ書6章18節)。
 さらに13節の神様にささげるとは、『あなたがた自身を神様に従わせなさい』(欽定訳)』『あなたがたを神の手の中に置きなさい』(フイリップ訳)『あなたがたを神に差し出しなさい』(米標準訳)
 そして委ねるとは、「誰かの意のままに自分を任せる」と説明し、「主よ。私はあなたのものです。あなたが用いたいと思われるどんな方法でも良いですから用いて下さい。私はあなたの自由になります。みこころのままに私を扱ってください。私の生涯に、自分の意思ではなく、あなたのみこころを求めます。」と説明しているのです。
 このささげるとは、ローマ書12章1節と同じ意味を持っているのです。まさにそれは神に信頼して全く委ねる行為なのです。
 聖書の中で聖霊に満たされた人物が多く登場します。彼らが聖霊に満たされたのは、そのいずれも神様に全く明け渡し、全くささげ、全く委ねた時です。
 エリサベツがマリヤのみごもりを聞いたとき、エリサベツの子どもが胎内で踊り、彼女は聖霊に満たされたのです。それはエリサベツが不思議な神のみわざを信じきって、将来神様のなされることに身をゆだねて、将来を主のためにささげたからです(ルカ1章41節)。
3.罪の告白と悔い改めです。
 罪の本質は自己中心です。それは神様を信頼し切れず、ささげ切ることを妨げるものです。
 まさしく先ほど学びましたように、聖霊に満たされるために神様におゆだねすることと相反するものです。
 罪の力は自分のためだけに生きるには大いなる助けとなっても、神のために生きることにおいては大いなる妨げとなるのです。
 その結果聖霊様への影響は明白です。もちろん悪い影響をもたらしたために聖霊様は悲しまれるのです。
 先ほども言いましたが、子どもが悪いことをして父が悲しまれ、それを見た子どもも悲しみます。
 しかし子どもが悪かったことを認め、ごめんなさいと謝り、過ちをくり返さない時に父は喜ぶのです。
 その喜びは子どもにも伝わります。それは聖霊様と私たちの関係にも共通しているのです。
4. 最後は信仰です。
 信仰がなければ神様は喜ばれないのです。つまり神様が喜ばれることをすることによって聖霊に満たされるということを第1で学びました。
 みことばを見ましょう。
『信仰がなくては、神に喜ばれことはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。』
(へブル書12章7節)

 「御霊の満たしは感じの問題ではなく信仰の問題だということを忘れてはならない。」
(ビリーグラハム)
「神の約束が果たされているのを自分が経験しているだろうかと、絶えず内面を調べていることほど、有害なことはない。子どもが絶えず種を掘り起こして、芽が出たかどうかを見ているようなものだ。御霊の満たしの経験は、主が扱われる問題だ。」
 (ジェームズ・マコンキー)