「聖書から学ぶ夫婦関係」エペソ5章22ー33節 2014年11月2日(日)

「聖書から学ぶ夫婦関係」
 エペソ5書22-33節 2014/11/2(日)
 エペソ人への手紙は、紀元60年頃に、獄中にいたと思われるパウロによって書かれたものですが、当時の女性の地位は言うまでもなく非常に低い時代に、5章から6章にかけて、家庭における夫と妻に関する教え、あるいは親子に関する教えは、当時のクリスチャンにとって非常に画期的な教えであったことでしょう。
 とするなら、聖書に馴染みがない日本人にとって、およそ2000年前に聖書が教えている夫婦関係についての大切なことを知らないというのは大きな損失ではないかと思うのです。
 ただし、今日キリスト教式の結婚式でされるカップルが多くなり、結婚式のメッセージでこのエペソ5章がしばしば引用されるというのは、結婚式に参加されている人たちにとって、聖書に書かれている大切なことに触れられるというのはとっても良い機会ではないかと思います。
 どんなに時代が変わり、人々の価値観もどんどんと変わっていく中において、変わらないもの、いや変えてはいけないものが聖書であります。
 確かに世の中には変わらなければならないものや、変えなければならないものもたくさんあると思います。なぜなら人間は完全ではないからです。
 しかし神様は完全なお方です。ですから神様に導かれて書かれた聖書は改善される必要はないのです。あるいは間違いを正したり、何か足りないということで追加する必要はないのです。
 ペテロが言っているように、「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。人はみな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることはない。」 第一ペテロ1章23,24節
 ですから私たちは、このみことばを土台とした価値観をしっかりと身に着けて生きることが大切であります。
 さて、このエペソ5章22−33節において、パウロはキリストと教会との関係における教会論を語りつつ、夫と妻との関係についての夫婦論を教えています。 
 けさはこのところから、聖書が教える夫婦関係においての大切な原則について学びましょう。
 まず22—24節では、妻は夫に従いなさいという第一の原則
 次に25—28節では、夫は妻を愛しなさいという第二の原則
 最後に33節では、妻は夫を敬いなさいという第三の原則について学びます。
 まず第一の原則(22—24節)
 妻は夫に従うということについて考えて見ましょう。
ここで妻が夫に従いなさいという教えについて、正しく理解されていない、あるいは間違って理解されているということについて見ていきましょう。
 この「従う」(ギ:ヒポタン)という意味を正しく理解するためには、前後の文脈を考慮しなければなりません。それによって、正しく理解をしていくなら、なぜ聖書は「妻は夫に従いなさい」と命じているのかを知る事ができるのです。
 「従う」という本来の意味とは、〈整列させる〉という意味があり、それは、秩序を持ってあるべき場所に並べる、服させる、任命する、指定するという意味から来ている言葉を服従あるいは従うと訳されているのです。
 つまり夫と妻の関係において、妻は夫に従うというポジションにあり、夫は妻を愛するというポジションにあるのです。 
 ところが、しばしばこの聖書の原則を誤用されるのです。それは、夫は妻に従い、夫は妻を愛するという聖書の教えを、お互いに押し付け、あるいは一方的に強要することです。このように、聖書の教えを利己的な利益だけで用いてはいけないのです。
 では妻はいかにして夫に従うべきでしょうか。それは22節にあるように「主に従うように、自分の夫に従うように」と教えているのです。
 その理由は23、24節に書かれているのです。それは、キリストは教会のかしらであり、夫は妻のかしらであるからです。ですから教会がキリストに従うように、妻は夫に従うべきですと教えているのです。
 聖書が教えている夫婦関係において、妻はかしらである夫に従うというポジションにあるのです。それは、神様が家庭を祝福するために設けられた秩序であります。
 先ほど「従う」とは、秩序を持ってあるべき場所に並べる、服させる、任命する、指定すると意味がある事を語りました。つまり神様が設けられた夫のあるべき位置とは妻のかしら(性)であります。 
 かしらであることの責任についてはあとで見ることにして、妻はかしらである夫に従うことによって、家庭の秩序が健全に保たれるということであります。
 しかも24節では、すべてのことにおいて、夫に従うべきですと命じられているのです。この所だけを見るなら、妻は不利な、あるいは不公平な立場に置かれていると思えるような教えであると思われるはずです。
 確かに妻は夫に従って行く方が生理的には無理がなく、楽であるということにいては同意できるとしても、すべてのことにおいて従うというのはいささか異論(文句)があるかも知れません。
 しかし教会が不条理な迫害という苦難に遭遇することがあったとしても、教会はぶれることなくキリストに従うのです。
 たとえ夫の自分勝手な振る舞いによって、妻が不利益を被ることがあるとしても、夫に従うことによって家庭の秩序は保たれるのです。それは神様の約束なのです。
 もちろん夫の行為を正当化しているわけではありません。不誠実な夫は、神様との関係においてその正否を問われるというのはいうまでもないことです。
 自分のことを言うのはおこがましいのですが、結婚して間もない頃、私はライフセンター(いのちのことば社)に働いていたのですが、仕事が結構ハードでした。それである時かなり疲れていたこともあって、妻に当たってしまいました。そして神様につぶやき、不平不満をつのらせていました。しかしそのように信仰的には落ち込んだ私でしたが、妻は私に対しては、忠実に従ってくれていたのです。
 もしそのような時に妻が私に対して批判的な態度や、侮辱的な言葉を返しているなら、おそらく二人の関係は悪い方向に向かって行ったことと思います。夫婦の秩序は、片方が保つなら(死守)守られるのではないかと思います。
 ペテロ第一3章1、2節で、『妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言の振る舞いによって、神のものとされるようになるためです。それは、神を恐れかしこむ、清い生き方を彼らが見るからです。』と書かれているのです。
 何となく妻が不利な立場に置かれているようにも思われるのですが、これも神様が定められた秩序であり、そのポジションにしっかりと立つ時に夫も妻も守られ、神様の祝福にあずかるということであります。
 次に、第2の原則(25—28節)である、夫は妻を愛しなさいという聖書の教えについてご一緒に考えて見ましょう。
 さて25節を見ますと、夫は自分の妻を愛しなさいと命じています。もちろん、それはキリストが教会を愛されたからです。
 先ほど、妻はすべてのことにおいて夫に従いなさいという教えに関して、多少なりとも不公平感があり、妻は不利な立場に置かれているのではないかと言いました。
 かりにそのようなことがあったとしても、妻が夫に従うという聖書の原則を守るなら、夫が守られ、自分も守られるということを学びました。
 では夫が妻を愛するという教えは、妻が夫に従うよりも容易なことなのでしょうか。いやむしろ難しいことが求められているのではないでしょうか。
 例えば、従うというのは、従う相手に非があっても忍耐すれば可能となります。ところが夫は自分の妻を愛しなさいという愛(ギ アガパオー)とはアガペーであります。
 つまり神様の愛であります。それはキリストが教会のためにご自身をささげられたという愛なのです。つまり犠牲的な愛であり、無償の愛であり、無条件の愛であり、無私の愛であります。
 ですから、夫はこのアガペーの愛を持って妻を愛することは決して容易なことではないのです。
 でも聖書が教えているように、そのような愛を持って妻を愛するなら、妻はそのような夫の愛によって、精神的にも、肉体的にも、また生理的にも守られるのです。
 夫のこのような犠牲的な愛に対して、妻は心から、自発的に従うというのが、聖書が勧めるところの真意であります。
 ではいかに愛するのか、28節、夫は自分の体をいたわるように妻をいたわるのです。30節では、キリスト者は、お互いにキリストのからだの一部分のゆえに夫は妻を愛するようにと教えているのです。
 最後に、第3の原則(31−33節)を見ます。ここでは妻は夫を敬う(ギフォボス:21節のキリストを恐れ尊ぶと同意語)という言葉が初めて登場します。夫を敬うというのは、妻が夫に従うなかで、神様の祝福にあずかることにより、夫への尊敬の念が生まれてくるのではないでしょうか。
 それは他のご主人と比べての優劣ではなく、自分の期待が叶えられたからではなく、神様が与えてくださった伴侶であるゆえに、神のみ教えに従いつつ、神の恵みを体験する中で身に着くのが夫を敬う心です。
 繰り返します。夫は妻を愛し、妻は夫に従い、敬うことは、夫婦は一心同体であるという聖書の偉大な奥義を成就させるものであり、家庭が祝福されるための黄金ルールなのです。
『あなたのみおしえを愛する者には、豊かな平和あり、つまずきがありません。』
 (詩篇119篇165篇)