「聖書が教える親子関係」エペソ6章1ー4節 2014年11月9日(日)

 『聖書が教える親子関係』  14/11/9
                 エペソ6章1-4節 
 誰しも子供の時期があるのですが、時代の流れとともに親の子供に対する考え方、あるいは子供の親に対する見方もまた大きく変わってきていると思います。
 なかでも、父親の威厳さは昔のほうがあったのではないかと思います。
 今日において、子供にとって父親はどのような存在でしょうか。なかには友達感覚的な親子関係もあるようです。あるいは何でも聞いてくれるというやさしい父親像、あまり当てにならない、頼りにならないといった存在観のない父親像、もちろん厳粛な父親を持つ子供もいるかと思います。父親像も昔と今とではだいぶ違って来ていることは確かであります。
 そして、私たちの国においては、親とはこういうものだといった指針、あるいは基本的な教えがないために、色々なタイプの親がいても受容される傾向があると思われます。
 そこには、型にはめられることへの抵抗感があって、色々な見方や考え方があっても、それらが受け入れられることが民主主義であるという考え方が根底にあるように思われます。そのこと自体は悪いことではないのですが、自由という本来の意味を間違って捉えることへの危険性もあるのです。
 このように、一つだけではなく、他にも色々な考えがあってもいいという考え方は、唯一神信仰は排他的といった見方につながりやすいのです。
 むしろ多神教が歓迎されるという素地が生まれやすいのです。そういう意味において私たちの国においては、けさの聖書が教える親子関係についても、単に様々な教えの中のひとつとして捉えられるかも知れません。
 さて私たちクリスチャンはどう理解すればいいでしょうか。けさ学ぶ親子関係こそが絶対的な教え、つまりこの教えだけが正しいのであるという思いで学ぶべきでしょうか。  あるいは、もっとフレキシブ(柔軟性を持って)に捉えればいいのでしょうか。
 答えは、聖書の教えは原則であり、その原則をいかに適用するかが大切であるということです。
 ですから、この聖書についての正しい理解は非常に重要であります。なぜなら案外と間違って聖書の教えを自分の生活や人生に適用しているクリスチャンが少なくないからです。それではこれらのことを意識してけさの箇所をご一緒に学んでいきましょう。
 先週は夫婦論について学びました。妻は夫に従い、夫を敬い、夫は妻を愛することが聖書の基本的な教えであることを学びました。 
 今回は親子関係です。このところにおいても、子供は両親に従い、両親を敬うようにと命じているのです。その命令の背景には、親が子供をしっかりと育てるという責務があるのです。
 愛情を持って子供を育てられていく中で、その子どもはやがて親に従う大切さを身に付け、さらに親を敬う精神が養われていくのです。
 もちろんこのように理想通りに子供をしつけ、あるいは育てていくことは非常に難しいことだと思います。
 それは私自身も経験していきました。もちろん皆さんも同じではないでしょうか。聖書から学んだから、子供のしつけはうまくいきましたという人はどれだけおられるでしょうか。
 おそらく試行錯誤する中で、様々な失敗や苦労を繰り返して来られたのではないでしょうか。その結果が芳しくないということもあります。
 もちろん聖書の教えがあるのは頼もしい限りですが、必ずしもその教えどおりにはいかないということが多々あるのが、子育てではないかと思います。
 どの親もその時はこれで良いと思って、一生懸命に子育てをしているのですが、結果的には思うようにいかなかったということもあるのです。
 しかし、大切なことがあります。それは子育てについて懸命に努力し、苦労したことです。子育てに手抜きや、無関心や、放任主義であったということの事のほうが問題ではないかと思います。
 では次に、聖書が教える親子関係について聖書の原則について学びましょう。
 第一に子どもは主にあって両親に従うことです(1節)。
 主(イエス・キリスト)にあってとは、主にある両親(クリスチャン両親ゆえに)という意味ではなく、主にあってとは、主の御心に合致しているということであり(共同訳:主に結ばれている者として)、後半の「これは正しいことだからです。」につながっているのです。
 もちろんこの教えは原則であることをわきまえないといけないのです。というのは、子どもが親に従うということにおいて、子どもの年令に応じてそのしつけも変わってくるのです。
 幼少期は親の言葉だけでたいていの子どもは従ってくれます。でも中学生、高校生になると難しくなって来るのです。いわゆる反抗期を通るからです。
 場合によってはうちの子どもに反抗期がなかったという親御さんもおられます。反対に早い時期から反抗期があったという方もおられるのです。
 どちらがいいとは言い難いことですが、やはりそこには個人差があると思います。特に子どもの反抗期の時には親が試されるときです。もちろん信仰も試されます。
 反抗している子どもに、聖書の原則を押し付けてもかえって反発するだけです。そこにおいて大切なことは、聖書の原則を、いかにうまく適用するのかということです。
 例えば反抗期に子どもに従いなさいと言っても逆効果と言う場合が多いと思います。そのような時には親は反抗期とは何かを知ることも大事であります。それは自立への目覚めの時、自己責任を持って行動しょうとする時期でもあるのです。
 そのような時期に闇雲に親に従いなさいと命じても反発されるだけです。その時期において大切なことは、子どもの健全な自立です。
 親から離れて自由になりたい、自分の好きなことをしたいといった自己中心的な自立ではなく、健全な精神が伴った自立です。
 親の言うことに耳を傾けることができて(従うこともできる)、しかも自分の考えをしっかりと持っているというものです。
 現実はそうはいかないかも知れませんが、思春期の子どもさんを持つ両親が目指す子育て法でもあります。聖書の原則を教えることは大切です。その原則を押し付けは逆効果となり、そしてその適用を間違ってはかえって子育てがうまくいかないケースが多いのです。
 それでもクリスチャンの親は子どもに信仰を持って欲しいというプレッシャーがあります。それゆえにかえって、親子間にトラブルが起こることもあります。
 そのような場合であっても、神様に信頼して、子どものために祈り続けるのがクリスチャン両親の責務であり、重荷でもあると思います。
 多様化した時代における聖書の原則の適用です。難しいことも多くなって来たと思います。親自身も信仰が試されるのです。
 ここで聖書の教えに戻ります。6章1節の従うというのは,妻が夫に従いなさいという勧めと同様に、家庭の秩序において重要であるということなのです。それは子どもたちが家庭という小さな社会の中で、正しい権威を持つ者に対して服従するということはどういうことかを学ぶ所でもあります。
*油注がれたのちも、父の命令に従ったダビデ(第一サムエル16章19節)。
 次に2節です。ここではあなたの父と母を敬えと教えています。
 モーセ十戒の後半部の第一の命令です。つまり対人に対しての大切な第一の戒めです。
 ここには順番があるのです。先ほど子どもは両親に従いなさいということ学びました。両親に従う、しかも無理矢理や嫌々ながらでなく、心から従うことができて行く中で、次に父母を敬うという命令をクリヤーできるということです。
 従うことと敬うこととは相関関係にあるというのは言うまでもないことです。
*ヨセフとヤコブとの対面において(創世記48章12節)。
 このように家庭は大切であるという理由とは、やがて社会の中で、神様の前においても、人の前においても正しく生きて行くための訓練の場でもあるということです。
 そしてこの父母を敬うことは約束の伴ったものであることを見逃してはいけないのです。3節において、『そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする』という約束です。
 それは必ずしも長生きしていることが親孝行の証しということではないのです。親孝行してしあわせであり、長寿を全うできることはただ神様の恵みのほかありません。
 私たち信仰者は、地上が最終地ではなく、神の国がゴールです。
 なかには親孝行にも関わらず、短命で地上生涯を終えることもあります。しかしこれもまた神様のなさるわざであり、御心のご計画なのであるという信仰を持つべきです。
 この約束において、神の国に行けることが何よりも幸いであることが大前提となっているのです。
 最後は4節です。主の教育とは、心身の成長のための訓練(しつけ)であり、訓戒とは、不完全な点を矯正するための助言あるいは必要な体罰であると考えられています。
 LBでは『両親にも一言言っておきます。子どもをいつもがみがみ叱りつけ、小言を並べて、反抗心を起こさせたり、恨みを抱かせたりしてはいけません。かえって、主がお認めになる愛のこもった訓練と助言や忠告を与えて育ててください。』
 子育ては言うほどたやすくないものです。理屈で分っていても思うようにはいかないものです。まさに神様の助けが必要です。祈りが不可欠です。
最後にキャンベルモルガンの言葉を引用して終わります。
 『父親は自分自身を子どもに対して神を啓示するものというよりは、子どもに食べ物や衣服や教育を与える者として考えるようになった。また母親は、物質的な快楽を与えるために、子どもの奴隷となっている。そして、神の恩寵の美しさを母親自身が、子どもに最も良く輝かすべき者であることを忘れている。』
 両親を従い、敬う子どもは、殺人、不品行、窃盗、中傷、強欲から守られるに違いない。すばしこくて、こうかつな誘惑に迫られた時に、若い男女が敬虔な父と信仰深い母を思い出し、その感化を意識することによって、幾度となく誘惑に打ち勝ったことは、何世紀にも渡る過去の歴史が示している。