「神の家族の平和とは」 エペソ2章11−18節  2018年11月4日(日) 港

 「神の家族の平和とは」 エペソ2章11−18節 

 いかなる国も、軍備を強固にして国境を守らなければならないというのが世界の実情。人々は平和を願うが、平和は遠のくばかりである。

 では、聖書が教える平和とはどのようなものか。聖書は神と人間との関係は非常に悪い状態であると教える(コロサイ1章21節)。しかしエペソ2章11−18節において、神と敵対関係にあった人間がいかにして神との平和を持つことが出来たのかを説明している。

 パウロは11、12節においてユダヤ人には神の救いの希望があり、異邦人はないと語る。ユダヤ人から見れば異邦人は、神の契約のしるしのない無割礼者で、汚れた者であった。またユダヤ人はメシヤを待望していたが、異邦人にはメシヤ思想すら無縁であった。ユダヤ人は聖なる民として数えられ、異邦人は汚れた者として神の民としては加えられなかった。

 パウロがこのように言ったのは、異邦人を蔑む(さげすむ)ためでなく、異邦人にとってどうにも出来ないのろわれた運命を変えてくださり、敵対関係にあった神との和解の道を備えられたのがイエス・キリストであるということを、異邦人クリスチャンに知らせるためであった。

 次に「キリストの血によって」とはどういう意味かを説明しているのが13節−18節である。
旧約時代、ユダヤの民が犯した罪のために神との関係が悪くなっている状態を、動物の犠牲(いけにえ)によって神はご自分の民と和解された。同様にイエス・キリストが十字架でご自身のいのちを犠牲にされたことによって、父なる神はイエス・キリストを信じる者と和解される。

 本来、神と人間との間には2つの壁がある。ひとつは律法を完全に守らないと神の救いにあずかれないという壁。もうひとつは、罪を犯さないなら神のさばきを免れるという壁である。ところがキリストは、人が乗り越えられない不可能な2つの壁をクリヤーしてくださった。キリストは、律法を完全に守られ(ローマ書10章4節)、何の罪も犯されなかった。父なる神は、その聖い完全な犠牲(十字架の死)を良しとされた(へブル7章27節)。

 イエス・キリストこそ神との平和、神の救いにあずかるための条件を唯一満たす方である。時として平和を乱すのが私たちの自我や利己的な欲望である。罪により神との関係を悪くした結果、人は死後、永遠に神から離される。ですから、あなたもイエス・キリストを信じ、平和な神の家族の一員となりましょう。

「眠っている人たちの希望」テサロニケ第一4章13−18節 召天者記念礼拝   2018年10月21日(日) 召天者記念礼拝 

  「眠っている人たちの希望」テサロニケ第一4章13−18節 召天者記念礼拝
   
 4章13節で死者を「眠った人たち」と書いている。実に不思議な言い回しである。普通死んだ人を眠った人たちとは言わない。聖書が言う「眠っている」とは、いつか必ず目を覚まして起きるという意味である。そのことを具体的に説明しているのが、第一テサロニケ4章13−18節である。

 まず、はじめに13節でパウロは死んだけれども、眠っているのですという言葉で、身近な人を亡くしたクリスチャンたちを励まそうとした。とはいえ身近な人の死は悲しいものである。場合によっては、悲しみからいつまでも抜け出られないという事もある。死とは何か誰からも聞くこともなく、知るすべもなく身近な人の死に直面される人が多いのではないだろうか。
 続いてパウロは、眠っている人たち、つまり死んだ人々について、望みのない人たちのように悲しんではいけない理由を14節以下で説明している。

 14、15節でパウロは、イエスの復活の事実に目を向けさせ、イエスの復活を信じている者の希望について語る。つまり、キリストを信じて死んだ人は、やがてよみがえりキリストと共にこの世界に現れると証言している。しかも15節で、キリストの再臨の時に、まずキリストを信じて眠っている人たちがよみがえってキリストに出会う。もし、キリストの再臨の時に生きているなら、そのあとによみがえる。

 続いて16、17節で、それらの出来事をさらに時系列に説明している。まず、パウロはキリストを信じて死んだ人は、どのような希望があるのかを語る。それは、この世の終わりにおいてキリストが空中まで降りて来られ(空中再臨)、まずキリストを信じて眠った者たちがよみがえり、それから地上に生き残っている者たちも一瞬に空中まで携挙されて空中で主とお会いする。つまり、キリストの再臨までに死んだ信者たちは先によみがえり、次にキリストの再臨の時に生きている信者たちは、よみがえりのからだに変えられて、空中で先によみがえった人々と共に主にお会いする。

 アモス書に「イスラエルよ、あなたの神に会う備えをせよ」というみことばがある。聖書の預言によると、今日はいつ主が来られてもよい時代であるゆえに、召された人たちにお会いする時が近づいているのではないだろうか。何よりも召された人たちは、私たちと会える時を心待ちにしておられるはずである。ですから、私たちは復活信仰と再臨信仰による希望を持ち、共に励まし合って、各自に託された信仰生涯を全うして行きましょう。


 
 
 
 

「神の愛による救い」 エペソ2章1−5節 2018年9月23日(日)港

   「神の愛による救い」 エペソ2章1−5節 

 本来、物質に命はない。しかし仕事上、この線は電気が通っているか、あるいは通っていないかと言うよりも「生きてる」か「死んでる」かと言うほうが伝わりやすく、危険が伴う仕事上適切な言い方である。このように「生きている」か「死んでいる」かという言葉は、生きている私たちには強いインパクトがある。

 ところで、聖書は「死に」ついて曖昧ではなく明確に教えている。
『人間には一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている。』(ヘブル書9章27節)と書いているが、死は必ず来ることを否定する人はいない。ところが「死後にさばきが定まっている」ということには、戸惑い、あるいは異議を唱える方もあるだろう。
 さらに、聖書は死んでも天国につながる永遠のいのちについて教えている。もし、この永遠のいのちを受けないなら『永遠の滅びという刑罰を受ける』(第2テサロニケ1章9節)と教えている。
 以上は2章2節の『自分の背きと罪の中に死んでいた』とはどういう意味かの説明である。つまり肉体は生きているが、背きと罪によって魂は死後、神による永遠の刑罰を免れない。このような状態を聖書では「霊的な死」と言う。そして、「霊的な死」にある人の生き方についての説明が2節―3節で、まことの神を知らないと、悪い霊の働きに晒され、悪い影響を受けるだけでなく、気づかないうちに悪い霊に従って歩むようになると教えている。

 さらにパウロは3節で、すでに神を信じている私たちもまた、かつては欲望に対しては無力で、欲望に支配されて生きていた者であったと証言している。
 つまりパウロは1−3節において、私たちは神から離れているゆえに、神のさばきを受けることを深く認識させて、4、5節にある神の恵みによる救いの有難さを分からせようとしたのではないか。
 例えば、体に潜む病に気づかないと、適切な治療は受けられない。同様に私たちも、罪は神の御怒りは免れないことを知ってこそ、神に救いを熱心に求めるのではないだろうか。
 では、何故に神は御子のいのちを犠牲にしてまで私たちを救おうとされたのか。

 それは、第1に神は愛なるお方ゆえに、ひとり子イエス・キリストを十字架につけてまで私たちを救おうとされた。
『私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛がある』(第1ヨハネ4章10節)

 第2に神はあわれみ深く、恵み深いお方だから。もし憐れみ深く、いつくしみ深いという神の属性がないなら、私たちの救いは永遠になかったはず。この神の一方的な恵みによる救いを受け取るために、私たちがなすべきことは、良い行いや良い人間になろうとする努力は不要。ただ神のみことばを信じるだけである。 

「教会とは」 エペソ1章20−23節 2018年9月16日(日) 港

「教会とは」 エペソ1章20−23節  
    
 パウロは、「教会はキリストのからだである」と教えていることから、教会をキリストと関連付けて教会とは何かを考えてみよう。
 20節「キリストを死者の中からよみがえらせ」たのは、全能の父なる神の力により実現した。そして、そこにはキリストの父なる神への全き信頼があった。教会がキリストのからだということにおいて、

 まず第1に、教会は神に全き信頼する集合体である。つまり、イエスを信じて教会に集う一人ひとりが、どれだけ神に信頼して主に仕え、奉仕しているのかということであり、教会は、人間同士が信頼し合う集合体であるよりも、いかに神に信頼しているかの集合体である。

 次に、20節「天上でご自分の右の座に着かせ」られた。つまりキリストは教会のためにとりなしてくださっていることから、第2に、教会は神に祈られ、神に祈る集合体である。教会が祈りを途絶えるなら霊的いのちを失う。毎週の礼拝の祝福のための祈りが必要であり、お互いのためのとりなしの祈りが不可欠である。そして、祈りにより宣教が前進し、諸問題も熱心な祈りと願いにより解決される。神はすべてのことを働かせて益としてくださる(ローマ書8章28節)。何よりも、キリストは教会のためにとりなしをされているゆえに、教会は決して揺らぐことはないと信じましょう。次は22節父なる神は、「すべてのものをキリストの足の下に従わせ」、キリストを教会のかしらとされた。

 第3は、教会はキリストに従う群れの集合体である。ここでキリストに従うとは、神のみことばの教えに従うことである。主に喜ばれる教会とは、みことばを愛する集合体であり、日々みことばに生かされ、みことばに従う集合体である。

 ①教会とは、神に信頼して主に仕える集合体。

 ②教会とは、祈りの火を絶やさない集合体。

 ③教会とは、神のみことばに従う集合体。

  『神様の偉大さを知る』  エペソ1章15-19節 2018年9月2日(日)港

    『神様の偉大さを知る』  エペソ1章15-19節 

 私たちが信じている神はどのようなお方であるかをよく知るようにと勧めているのが17−19節である。

 17節では、パウロは、エペソ教会内にて間違った教えに惑わされているクリスチャンたちに、自分たちが信じている神はどのようなお方であるのかを知るために、知恵と啓示の御霊が栄光の父から与えられるように祈り願っている。
 聖霊によって与えられる知恵と啓示によって偶像崇拝から守られ、まことの教えか、あるいは偽りの教えかを見分けることができる。
『助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。』(ヨハネ14章26節) 

 続いて18節で、「心の目」がはっきりと見えるようになって、神様を信じている者に与えられる望みや富がどれだけすばらしいものであるかを知ることができるようにと祈り願っている。
 この「心の目」は新約聖書ではここだけの言葉で、人間の精神活動の根本である知・情・意の領域を含むものであり、神に召された者は「心の目」で、つまり聖霊によって開かれた心で、神を見、世界を見、社会を見、人を見、自分を取り巻く課題や問題を見なければならない。

 最後は19節で、パウロは神の働きと神の力の偉大さとはどのようなものかを特別な言葉で表現している。神の大能の力=ドミュナスの働き=エネルゲイヤによって、信じる者に働く=エネルゲイア、神のすぐれた力=ドミュナスと訳している。エネルゲイアから「エネルギー」が、ドミュナスから「ダイナマイト」という言葉が生まれた。ところが、私たちには神を深く知る理解力や知恵を曇らせてしまう罪の力という肉の弱さがあり、しかも罪の力には歯が立たない。

 しかし、イエス・キリストは神を深く知るための妨げとなる罪の力から解放してくださった。さらに、イエス・キリストを信じるすべの人に内住しておられる聖霊の働きによって、より深く神について知ることができる様にしてくださったのである。“神を深く知れば知るほど、信仰はより深められていく”
 
『私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あな
 たがたに与えてくださいますように。』 (エペソ1章17節)

 
 
 

「神をほめたたえよう(Ⅲ)」 −信仰の確信−  エペソ1章13−14節  2018年8月26日(日) 港

c 「神をほめたたえよう(Ⅲ)」 −信仰の確信−  エペソ1章13−14節  
 
 13、14節から信仰の確信を持つための大切なこととは何かを見ましょう。

 第1に救いの確信の土台は聖書にある。

 パウロは「真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより.......聖霊の証印が押され.......聖霊は御国を受け継ぐことのできる保証です。」と語っている。つまり、聖書に書かれていることを信じた結果救われる。なぜなら、聖書は絶対的な権威を持ち、さらに聖霊の保証がある。「聖書はすべて、神の霊感(霊)によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。」(第2テモテ3章16節) 
 
 第2の救いの確信の土台とは、キリストが十字架に架けられたという歴史的事実と救いの約束。

 イエス・キリストを信じて救われるとは、当時のローマの総督ポンテオ・ピラトによるイエスの十字架刑という歴史的事実と聖書の数々の約束に基づく。「キリスト・イエスの贖い(十字架の死)を通して、価なしに義と認められる(神の子とされる)からです。」(ローマ書3章24節)
 
 第3は聖霊を受けている。

「約束の聖霊によって証印を押されました。」(13節)この証印には所有権と保証という二つの意味がある。 ①所有権とは、主が、「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。」(ヨハネ10章14節)と言われたように、私たちは、羊のように迷いやすい者である。しかし、主は私の牧者で、いつも私たちを導き、守ってくださる。それは、主を信じる私たちに聖霊の証印(刻印:所有の印)が押されているからである。 次に②保証とは、わたし(神ご自身)のものであるという認証である。所有権だけでなく、特別なもの、あるいは大切なものとして保護してくださり、あらゆる侵害から守ってくださるという絶対的な保証である。次に「聖霊は私たちが御国に受け継ぐことの保証です。」(14節)この保証とは、手づけ金(約束手形)を意味し、イエスを信じた者には聖霊の保証(手づけ金)がある。それは、天国に行く確かな保証となる。

 第4は信仰の確信による心(感情)の変化が起こる。

 神を信じた結果、心に平安が与えられる。しかし、気分がすぐれないことがある。それでも、主はあなたを愛しておられる。病にかかって気持ちが落ち込む。しかし主は決して見放さず、見捨てられない。悩み苦しみの絶えないことがあっても、主の助けと励ましと慰めがある。
 先の見えない不安な人生であっても、主は先立って導いてくださる。誘惑に負けて罪を犯すことがあっても、真実を告白するなら赦される。感情に左右される信仰ではなく、みことばを土台とした信仰によって、神をほめたたえつつ、神とともに歩んでいきましょう!