『水をぶどう酒に変えられたイエス』 ヨハネ2章1−11節 2013年4月28日(日)

「水をぶどう酒に変えられたイエス
ヨハネ2章1−11節 13 .4/28
 1節のガリラヤのカナはイエス様の住居であるナザレから歩いて3時間ほどの所にあります。その村において、恐らくイエス様の親戚の婚礼式に、イエス様の弟子となっていたペテロとアンデレ、そしてピリポとナタナエルが招かれたたと思われるのです。
 ところが婚礼に招いた家庭は決して裕福ではなく、恐らく貧しい家庭であったと思われるのです。というのは、婚礼において振る舞う葡萄酒が底をついたことから推測できるのです。
当時のユダヤにおける結婚式は、数日間たくさんの人々を招いて婚礼をともに祝うという習慣があったようであります。少なくとも食事や葡萄酒を切らすというのは、恥辱的なことでもあったようです。
  さて、親戚であったイエス様の母マリヤは炊事部門の担当か責任者でもあったのでしょうか。ところが大きな問題が起こりました。それは用意しておいた葡萄酒がなくなったのです(3節)。
 婚礼のメインである葡萄酒がなくなるというのは、今日的には、お客様をすき焼きに招いたのですが、メインである肉が足りなくなるようなものでしょうか。いやもっと深刻な問題であったのかも知れません。
  なぜなら、招待された人たちは、葡萄酒を飲むことを楽しみにしていたからです(9、10節)。それは決して酔うために飲むというのではなく、この婚礼を祝福するためのものであり、みんなで楽しく、食べて、ふたりの結婚をお祝いするという慣習があったと思われるのです。
 台所の世話をしていた母マリヤにしてみれば、責任を感じたことでしょう。宴会の世話役に葡萄酒がなくなったことを告げなければいけない事態です。
 いかにしてこの局面を乗り越えればいいのでしょうか。そこで、マリヤは息子でもあるイエスに、「葡萄酒がありません。」と現状を伝えたのです。
 では、「葡萄酒がありません。」という母マリヤの言葉について考えてみましょう。
 「もうどうしょうもありません。」ということを息子のイエスに伝えようとしたのでしょうか。あるいは、「イエスなら何とかしてくれる。」という思いがあったのでしょうか。
 このような事態では、人間的にはあきらめるほかあいません。まさにどうしょうもない状況であります。
 しかしマリヤには信仰があったのです。それは自分の息子の不思議な誕生を知っていたゆえに、我が子イエスへの信仰があったはずです。そしてその信仰によって非常に困惑した局面が打開されていくのです。
 しかしながら、マリヤにイエス様が水を葡萄酒に変えられるという信仰があったとは思われないのです。
 しかし、マリヤは、イエスなら何とかしてくれるという信仰を持っていたのではないでしょうか。
 厳しい局面に置かれた時に、私たちはいかに信仰を働かすでしょうか。このようにして欲しい。あるいは、こうなればいいという願いも信仰でありますが、ただ厳しい局面や現状を訴えるだけで、あとは神様に、つまりイエス様にお任せをしたというのが母マリヤの信仰ではないでしょうか(参照:ルカ1章27−38節)。
 受胎告知を受けたときのマリヤの信仰です。 『ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばとおりこの身になりますように。』(38節)
 こうなるようにとか、このようになればと神様に指示をするような信仰ではなく、むしろ、私は何もできません。ただ神様により頼むだけです。マリヤにようにあなたのおことばどおりという信仰こそ神様に喜ばれるのではないでしょうか。
 事実、マリヤは5節で『あの方が言われることを、何でもしてあげてください。』という言葉には、イエスが言われることに全幅の信頼を置いていた何よりの証拠なのです。
 ところが、マリヤがイエスにお願いした時に、イエス様は実に奇妙な返答をされたのです(4節)。
 それは何か冷たい態度とか、マリヤを叱責されているのではないかとか解釈されそうですが、実はそうではないのです。
 恐らく優しい口調で語られ(女の方という言い方も当時は特別なものではなかったようです。)と思われます。
このイエス様のことばの真意について考えてみましょう。
 それは、主ご自身がこれからなされる奇跡は、マリヤに頼まれたためになされる奇跡ではなく、つまり人の欲求や願いからではなく、あくまでも神様主体による、神様の御意志による奇跡であることを明確にされた上で、水を葡萄酒に変えるという不思議でかつ驚くべき奇跡をなされたと思われるのです。
 それには、母マリヤと息子イエスという親子関係による信仰の対象から、あくまでもイエスを神の子と告白する信仰者となるようにとの思いがあったのではという解釈があります。
 つまりイエス様は、母マリヤが息子イエスという親子関係を断ち、イエスを神の御子とする新しい関係が始まっていることを母マリヤに促されたと思われます。
 どこまでマリヤが、このイエスのことばの真意を理解していたかは不明でありますが、一見冷たく、突き放されたようなイエスの言葉にもかかわらず、マリヤは手伝いの人たちに、『あの方が言われることを、何でもしてあげてください。』(5節)ということばの背景には、先ほど言いましたように、イエスのお言葉に対する全幅の信頼があったのです。
 とはいえ、私たちの信仰は時に試されるものです。神様を信じつつも、お祈りをしつつも、本当にそうなるのかと疑ったり、まさかという思いを持ったり、時には祈りつつそれは無理ではないかといった不信仰の思いに包まれることもあるのです。
  ある時に『悪霊につかれた息子の親が、イエス様に、「もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」言ったところ、イエス様は「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。』と父親の信仰的な言葉の裏に隠れている不信仰を叱責されたのです(マルコ9章14—29節)。
 それとは反対に、マタイ8章5−13節 を見ましょう。『ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。』
 イエス様は、この百人隊長のみことば信仰を賞賛されたのです。
 私たちもみことば信仰を大切にしましょう。そのためには、みことばを正しく理解し、また正しく解釈しなければならないのです。知っていると思っているみことばを間違って解釈していることもあるかもしれません。間違ったみことばの解釈によって間違った信仰に至るのです。 
 ですから、この聖書は生涯にわたって学び続けていかなければならないのです。
 さて、婚礼を行なっている家には、石の水がめが6個ありました。当時は外出から帰った時に足を洗うため。あるいは宗教儀式においても水を使うために、どの家にも水がめ数個はあったようです。
 そこでイエス様は手伝いの人たちに『水がめに水を満たしなさい。』と命じられました。その通りに水がめをふちまで一杯にして、手伝いの者たちがそれをくんで、宴会の所に持って行ったのです。その水は葡萄酒に変わっていたのです。ふちまで水を入れたのは、イエス様の奇跡がインチキ(混入物を入れることは不可能)でないということをそこにいた人々に証明するためのものです。
 そこで宴会の世話役は驚いて、最初はおいしい葡萄酒を出して、みんなが十分飲んだあとは、品質の悪い葡萄酒を出して来るものだが、最後になお良質の葡萄酒を出してきたことを非常に賞賛したのです。
 貧しい家で、葡萄酒を切らしてしまった状況から一転、その婚礼式は数日間(1週間)実に楽しく、喜ばしく、みんなから祝福されるという素晴らしい婚礼の時となったのです。
 このように、マリヤの信仰によって、厳しい局面を乗り越えることが出来ただけでなく、その信仰によって、婚礼の場にいた人たちも共に喜び、共に祝福に預かったのです。
 神様は、私たちの信仰によって喜びと祝福に預かるようにと願っておられるということを、このカナの婚礼での奇跡の出来事から教えられるのではないでしょうか。
  そして、イエス様の奇跡(水を葡萄酒に変えられた)についてはどのように理解すればいいのでしょうか。
 大切なことが書き留められています。それは11節です。この奇跡をなされた主を見て、『それで弟子たちはイエスを信じた』ということです。
 たしかに厳しい状況において、神様!奇跡を起こしてくださいと思うときがあります。それでも奇跡が起こらず、事態が変わらないことの方がむしろ多いはずです。
 しかし、たとえそうでなくても神様のなされることを待ち望む信仰は、奇跡を体験する信仰以上に賞賛されるということを知っていただきたいのです。
 何よりも私たちが神様を信じていること、そして魂が救われて、死後天国が約束されていること自体が奇跡なのではないでしょうか。