「神に喜ばれる忠実なしもべとは」 ルカ12章35−48節 要約 2017/11/19(日)港

   「神に喜ばれる忠実なしもべとは」 ルカ12章35−48節 
 イエスのたとえ話から、神に喜ばれる忠実なしもべとは、1用心深く備えているしもべ(35−40節)。
 イエスのたとえ話とは、主人がいつ(真夜中か夜明けか)婚礼から帰って来ても、帯を締め、あかりをともして、すぐにでも戸を開けようと、その帰りを待ち受けて目を覚ましているしもべは幸いであるという内容である。
 
 さて、このたとえはキリストご自身の再臨は思いがけない時に起こるから、用心深く備えているようにとの警告も含んでいるが、その時より2000年以上経った今日、主の再臨はより近づいている。では、差し迫る世の終わりにおいて、用心深く備えるとは何か。
 それは、主がいつ来られても良いように①日々祈りを絶やさず②日々みことばを聞き③日々主を待ち望み、主に仕えることではないか。
 
 2思慮深く備えているしもべ(42−48節)。
 主人は思慮深いしもべには、さらに多くのものを任された。主人の信頼を得たしもべの思慮深さとは何か。
今日の道徳の退廃の要因の一つに、思慮深さの欠如にあると思われる。その原因はどこにあるのか。それは、「主人の帰りは時間がかかる」という自分勝手な思い込みであり、自分の考えに固執して物事を捉えることである。

 それは、規範(基準)のない自己判断である。さて規範とは、行動や判断の基準となる模範、あるいは手本という意味があり、まさに規範とは正典(カノン)であり、聖書のことである。神様が人間に与えてくださった聖書こそが、生き方の規範であり、生活の規範である。人間中心の様々な基準は時代とともに変わる。しかし、聖書は永遠に変わることはない。

 多くの日本人が聖書を知らない(基準がない)ゆえに、あまりにも自分勝手な、利己的な判断による行動が凶悪な犯罪を生み、今日の道徳の退廃を招いているのではなか。真の思慮深さは、聖書を学ぶことによって得ることができる。私たちクリスチャンも油断しないで、「主人の帰り(主の御再臨)はまだ時間がかかる」。」という心の緩みがないようにしょう。しもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来られる(46節)。ですから、日々の生活の中で、みことばに聞き従い、祈りをもって行動することは思慮深い生き方なのである。
 
 最後は、主が喜ばれる忠実さとは何かを見よう。
主イエスが私たちを迎えに来てくださる日が必ず訪れる。それは思いがけない時である。その時に、主が私たちに求められるのは忠実なしもべである。
 この忠実(英語:Faithhul)とはギリシャ語ではピスティス(因みに信仰はピストス)である。忠実(ピスティス)の本来の意味は、「真実、誠実、信仰」である。ですから、忠実であるとは、まず主が愛して下さっているありのままの自分であること。なぜならありのままにこそ、その人の真実があり、誠実さがある。
 次に忠実なしもべになるための大切なことがある。それは、どんな時(順風満帆、厳しい状況に関わらず)でも神に信頼し、神に仕え、みことばに従い、信仰によって歩むなら、主はきっと忠実なしもべと喜んでくださるのではないだろうか。